ベイスターズを二軍中心に見守るブログ 本店

毎年20~30試合ほどベイスターズ二軍の試合に足を運ぶ我慢強い男のブログ。野球関連の問題提起や将来へ向けた改革提案等も

人はなぜ、野次るのか

 

 かつてのまだ親会社がTBSだった頃のベイスターズには、栗原治久さんとケチャップさんという二人の専属スタジアムDJがおられまして、主に栗原さんが一軍を、ケチャップさんが二軍(湘南シーレックス)の主催試合を担当されていました。

 時々、栗原さんの都合がつかない時はケチャップさんが一軍の試合を受け持つ場合もありました。

 

 栗原さんは元々FMヨコハマでDJをされている方でしたのでいかにもFMらしい洗練されたトークをするのに対し、ケチャップさんはお笑い畑出身で、オーソドックスなスタジアムDJぶりを発揮する事もありましたけれども、特に二軍の試合においては従来のスタジアムDJとは一線を画すような、観戦マナーの向上に非常に力を入れる側面も持ち合わせておりました。

 

 球場内で走り回る子供達に優しく注意し、球場最前列のフェンスに張り付いて観客席の視界の妨げになっている人に注意し、汚い野次を飛ばすファンの元に足を運んで懸命に説得を続ける、非常に特異なスタジアムDJ、それがケチャップさんだったと記憶しています。

 

                ■

 

 ケチャップさんがスタジアムDJを務めていた頃といえば、ベイスターズ暗黒時代の真っ只中にありました。ファンも選手もフラストレーションが最高潮に達しようかという時期ともなると、いやが上にもファンの野次、罵声が目に見えて増えるようになっていきます。

 

 それは一軍の横浜スタジアムのみならず、二軍の横須賀スタジアムにおいても同様の傾向を呈するようになっていきます。

 

 そこでケチャップさんは、汚い野次や罵声を飛ばすファンのもとに直接足を運び、一人ひとり真剣に向き合って、野次を止めるように、前向きな言葉で声援を送るように説得を続けるようになりました。

 

 汚い野次を飛ばすようなファンというのは往々にしてバックネット裏などの選手と近い位置に陣取る傾向が強いようで、したがってその声は選手の耳にダイレクトに届きます。ケチャップさんはその声の主の元を訪れて説得を続けました。

 素直に従う人もいれば、「俺は金を払ってきてるんだ!野次を飛ばして何が悪い!」と反発して、ケチャップさんの面前でさらに汚い野次を立て続けに繰り返すような強情な人もいましたが、ケチャップさんは努めて冷静に、時間をかけて丁寧に説得を続けました。

 

 

 たぶんですけれども、ケチャップさんが雇い主の球団から課せられた任務にそこまでの仕事は含められていなかったのではないかと推察します。

 さわやかな、しかし時に熱いトークで球場を盛り上げてくれればそれでいい的な事ではなかったかと思うのです。

 

 それに、マイクを通して球場全体に幅広く注意喚起するのとは違い、野次を飛ばす本人の元に足を運んで膝詰めで説得をするというのは、並大抵の負担では無いと思います。面倒くさいというか、気後れするというか、大変骨の折れる仕事ですけれども、それを自分に課されたミッションでもないのに担っていくというのは、なかなか出来ることではありません。

 

 

 ただ、そのおかげで横須賀スタジアムは平和に保たれておりました。確かに暗黒時代ではあるけれども、横須賀スタジアムには未来がありましたし、前向きに選手たちを応援する機運に満ち溢れていました。

 

 あの頃の横須賀スタジアムは素晴らしかったと今でも思いますし、ですから僕は今でもケチャップさんに感謝の気持ちを持ち続けています。

 

 

              ■

 

 

 僕は神奈川県川崎市の南部で育ちましたので、球場観戦のイロハのほぼすべてを、当時川崎球場を本拠地としていたロッテオリオンズの試合で学んだと言っても過言ではありません。

 

 昭和末期から平成初頭にかけての川崎球場といえば、特にお客さんが少なくて「観客席でファンがキャッチボールしている」とか「カップルが人目をはばからずにイチャイチャしている」とか「観客席でファンが流しソーメンをしている」などといった牧歌的な文脈で語られる事が多いと思うのですが、実際にはそういうのはほんの一部に過ぎず、だいたいの場所では非常に殺伐としていて、とにかくマナーが酷かったの一言に尽きると言えます。

 

 ロッテが負ければグラウンドにゴミを投げ込むのが当たり前。監督に向かって「有藤氏ね!」と野次るのも当たり前。酷いと試合のインプレー中に相手選手めがけて瓶を投げ込む輩まで現れ、金田監督自ら外野スタンド近くに来てファンに注意を促すような事件まで起きました。

 

 川崎球場がそういう場所であるというのは善良な川崎市の大人の人達は当然知っていましたので、ですから僕が川崎球場に行くのを自分の親は決して良い顔をしませんでしたし、大人に引率してもらった事もありませんでした。

 東京ドームや横浜スタジアム西武球場には大人に連れて行ってもらうけれども、川崎球場は子供たち同士で自転車かバスに乗って行く場所であり続けました。

 

 

 僕はそんな環境に身を置いておりましたので、周りの見ず知らずの大人達と一緒になって「有藤氏ね!」と野次っていましたし、試合後にはそこらへんに落ちているゴミを見境なくグラウンドに投げ入れては面白がっておりました。

 

 本当に、今思い出すと本当に恥ずかしく、穴があったら入りたいと真剣に思うくらいの黒歴史なのですけれども、負の歴史もまた後世に語り継ぐ必要があると思いますので、自戒を込めて書き残します。

 

 

               ■

 

 

 で、そういう過去を振り替えって改めて考えてみるわけですが、果たして汚い野次を飛ばす事に一体どのような意味や効果があったのかと言えば、プラスの効果など全く無かったと断言できると思いますし、マイナスの効果は語りきれないほど、山のようにあったと、これも断言できると思います。

 

 我々川崎市民がありとあらゆる汚い野次を飛ばし、ゴミを投げつけ、また冷淡な態度を取り続けた結果として起きた事は、ロッテの千葉移転でありました。

 

 野次ったりゴミを投げたりしつつも年に何十回も足を運ぶ憩いの場を、我々は失ってしまったのです。

 

 出ていかれて当然だったでしょう。当時のロッテ経営陣の判断は賢明であったと、今では理解できます。

 むしろ、あれだけ酷い扱いを受けてもなおその場に留まり続けるという方が理解できない事でありましょう。

 

 移転するだけに留まらず「オリオンズ」の名前さえ捨てられましたので、それくらい忌々しい過去だったのだろうと思いますけれども、それも致し方ないと、今では理解しております。

 

 ツンデレでは通用しないのであります。

 

 

               ■

 

sportiva.shueisha.co.jp

 この記事を読みました。

 

 森大輔選手は三菱ふそう野球部から自由獲得枠でベイスターズに入団した期待の星でありました。

 

 特に三菱ふそう野球部の練習場は僕の地元の川崎の平間という街にあり非常に親しみやすいチームですし、同じ年のドラフトでロッテの1位指名を受けた内竜也選手も平間の高校にいた生徒さんでしたので、この狭い、そしてこの名前からして取り柄のない地味な街から二人もドラフト1位が出たという事で鮮明に記憶しています。

 

 そして、ファームも含めて一度として登板機会を見ることもなく、なぜか選手なのに中国留学したという記憶だけを残してチームを去っていったわけですが、その背景にはこんな事があったのかと、あれから十数年経った今になり、色々と複雑な思いを持つに至りました。

 

 辛かったんだろうなと思います。

 

 野球少年だった僕みたいな人間にとってはプロのユニフォームに袖を通しているだけで雲の上の人物であるし、何かまるで別の生物とか、身分の違いみたいな感じさえしてしまうのですけれども、そんな人物でさえ、恐らく軽い気持ちで放ったであろう観客の野次の一つをその後十数年先まで気に病み続けているんですよ。

 

「本当は右投げなんじゃねぇの!」

 

  これを言った本人は、たぶんもう覚えていないんじゃないかと思いますよ。だけれども、言われた当人は十数年経った今でも覚えているんです。もちろん悪い意味で。

 

 こんなに重いことは無いと思います。

 

 

 僕も、言った本人が軽い気持ちで放った一言で傷ついた経験があります。もう10年は経ってるだろう一言を今でもふわっと思い出すことがあります。

 言った本人は軽い気持ちで言ってるんですよ。悪気はないんですよ。でも、言った本人に悪気があろうがなかろうが、言われた側からすれば関係無いんです。

 

 

 森大輔さんは、この記事から察するに、まだ相当引きずっているように感じられます。だから取材に対して涙をながすのでしょう。

 

 

                ■

 

 悪気は無いとか、軽い気持ちとか、いい年した大人がして良い言い訳では無いですよね。

 

 そんな事を、この森大輔さんの記事を読んで、改めて感じました。

 

 もちろんそれは自分自身が一番注意しなければいけない事ですから、あえてこうして文責みたいな意味あいをこめて、このように書き残しておこうと思います。

 

 

 

以上