多村仁志選手の中日入団をしみじみと喜びたい
ベイスターズから戦力外となり進路が注目されていた多村選手の中日への入団が発表されて、数日が経ちました。
当初は発表を受けてただちにエントリーを書こうとも思いましたが、その時は踏み留まり、あえて数日が経って少し冷静な気持ちになってから、しみじみとした気持ちで書く方が良いと考えるに至りました。
急いで書いても、きっと感情が昂ぶってろくでもないものになるに違いないと思ったからです。
今思えば、多村選手の進路は、いつも急に知らされるものでした。
2006年の12月。それはあまりに急な知らせでした。僕はその時どういう状況で一報を知ったのか今でも克明に記憶しています。当時勤めていた池袋の会社の終業時間となり、終礼が終わり、従業員がぞろぞろと帰宅をし始める段階の中で、福岡出身でホークスファンの部下であるH君に「Sさん!多村がトレードらしいっす!」と知らされたのです。
ぬぁにいいいいいいいーーーー!
僕は瞬時に激昂し、ただ情報を知らせてくれたに過ぎないH君に掴みかからんばかりの勢いでした。H君が見せてくれたインターネットニュースの記事を目の当たりにして、それが事実であると認識をしてからというもの、そこから無意識のうちに多村選手の思い出が走馬灯のように脳裏を駆け巡っていくのがわかりました。
2004年はシーズン40本塁打をマークしました。スポーツ新聞の記事で「オバQ超え」とか「チーム日本人最多」という見出しが躍り、和製大砲好きの僕を夢心地にさせてくれました。
2005年はオールスター前までセリーグの本塁打と打率で2冠王を独走していました。打点もそれほど差がなかったので、三冠王も夢ではないと思いました。その年はチームがそこそこ強かったのもあり、まさに「我が世の春」を謳歌した気分でした。残念ながらぎっくり腰や交通事故等の不運もあってそれ以降の数字ははかばかしいものではありませんでしたけれども、それでも3割30本をマークして来季以降の大飛躍を期待させるものがありました。
2006年の春は第一回のWBCに出場して日本代表のクリーンアップを任されました。優勝して凱旋帰国した後にはとんねるずのテレビ番組で食わず嫌い王決定戦に出演し、荒川静香さんと対戦しました。この時はテレビの前で正座して見守ったものです。不振を極める我がベイスターズから、テレビのバラエティ番組でピンでゲストに呼ばれる選手が登場するとは、とても誇らしい気持ちになりました。
そういう思い出が瞬時に脳裏を駆け巡ったのです。
ソフトバンクへ移籍してからも、ずっと気になる存在であり続けました。2007年の交流戦、横浜スタジアムで行われたホークス戦は意気込んでSS指定を購入して迎えたものの、確か初回の守備か何かで故障してわけのわからぬまますぐに退場してしまい、代わりに吉見選手が完封勝利&猛打賞という乙な試合を見届ける事となりました。
そして2012年のオフ、多村選手はベイスターズに帰って参りました。
その時期は、どこかのスポーツ新聞がソフトバンクの大場選手がベイスターズにトレードに出されるという記事を書いて話題になっていたのもあり、誰かしらがトレードになるのだろうという想像はしていました。
そのニュースは、たまたま取引先から帰る途中、ヤクルト戸田球場近くの美女木のコンビニの駐車場に車を停めて休憩しつつ見ていたツイッターで知ることとなりました。誰かがトレードされるのだろうとは予想していたものの、それがまさか多村選手だったとは、あまりの嬉しさに自分1人車内で転げ回ったのを覚えています。
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それからの事は改めて書くまでもないと思いますが、戻ってきてからの多村選手の働きぶりが期待に沿うものだったかといえば、必ずしもそうではないと思います。
打率が3割を超えた事もありませんでしたし、1シーズンの出場試合数が100を超えたこともありませんでしたし、ホームランもシーズン最多は2012年の12本です。
僕は贔屓の引き倒しみたいなものが好きではないのでハッキリと書きますが、期待はずれだったと言っても過言ではないでしょう。
チームの起用法にケチをつけると言っても、三十代後半のベテラン選手が起用法云々で責任逃れというか、そういう理由で擁護するのも憚られるというものです。
多村選手は、普通の一流選手とは違い、扱いの難しい選手です。
一流の選手は、シーズン中は少々の故障があっても我慢して、1シーズン出場し続ける事が由とされるものです。僕の考えはそうではないですが、日本プロ野球界のコンセンサスとしては、故障があっても調子に波があっても試合に出続けるのが一流という事になっています。
ですが、多村選手はそういう普通の一流選手の枠組みに当てはめようとしても、うまく合致できない選手です。ですから、そういう扱い方しか出来ないのであれば、それはもう諦めてもらうしか無いのだと思います。
他方で、故障や調子の波があって充分に活躍できない時期は無理せず休ませるという合理的な考え方ができるのであれば、多村選手はまだまだ働ける選手だと思います。
事実、多村選手は初めて40本塁打を達成した2004年でさえ15試合ほど欠場しています。ソフトバンク時代の2010年に140試合出場して打率.324の27本塁打と活躍しましたが、身体にムチを打ってたくさんの試合に出続けた影響が翌年に現れて一気に数字を落としています。
旧来型の、それこそ金本知憲さんのように故障に負けずに試合に出続ける事を美徳とするステレオタイプな考え方は、果たして正しいのだろうか。
多村選手のプロ野球生活を見続けながら、僕は考えました。
起用する首脳陣からすれば、毎日同じオーダーで組めたほうが良いのは当然です。毎日同じオーダーなら選手も自らの役割を高水準で認識して各々で考えてプレーしてくれるようになりますから、首脳陣は楽ができるようになります。
ですが、それが出来るのはV9時代の巨人や黄金時代の西武、そして現在のソフトバンクのような戦力と資金力に揃って長けたチームであって、どちらかが欠けているチームは、その時々で最適解を考え続けなければならない筈です。
戦力や資金力に事欠いているのに、シーズンフル出場で働けない選手を忌み嫌って放り投げているようでは、それは現実を無視した、もしくは楽観主義的な、そして職務怠慢であると言わざるを得ません。
戦力がないならないで、適材適所でちょうどよい人材を手元から迅速に調達しなければならないわけです。
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たらればを言っても仕方がないですが、ラミレス監督の三浦大輔選手に対する遇し方を見ていて、ラミレス監督の下でプレーする多村選手を一年だけでもいいから見てみたかったと、つい考えてしまうのです。
ラミレス監督は「ベテランに寒い時期に無理をさせるよりは暖かくなってから動いてもらったほうが」という理由で三浦選手のスロースタートを容認する考えだそうです。つまり開幕から閉幕までのフル出場を望んでいないわけで、こういう合理的な起用法が多村選手にも向けられていれば、もしかしたらもう一花咲かせる事ができたのでは、と、ありもしない夢を思い描いてしまうのです。
その点では、新天地が中日に決まったのは好都合かもしれません。
中日は山本昌選手を年齢に合わせて非常にゆっくりと起用し続けた実績があります。昨年は戦力外から入団した八木智哉選手が広島戦でしか通用しないと見るや、広島戦ばかり登板させて彼の個性を思う存分活かす合理的な選手起用を見せてくれました。
ソフトバンクのように戦力が重厚なチームではそもそも出場する機会すら与えてもらえないだろうし、かといって戦力が乏しくても従来型のフル出場を求められるようなチームでは活躍が難しいだろうから、だとすれば中日が最もふさわしい進路だったのかもしれない、と考えるようになったのです。
中日は和田一浩選手が引退してしまった穴があります。引退するのは勿体無いくらい素晴らしい選手でしたので、その穴は決して小さくはないはずです。
そして、中軸で長打を期待できるような選手が育っていないチーム事情もあります。平田選手がプレミア12で一躍名を挙げましたが、まだまだ顔で勝負できるだけの選手ではないでしょう。
多村選手は、とりあえずは育成選手としての契約ですが、春のキャンプで身体がしっかり動くところを証明できれば、すぐにでも支配下登録されるでしょうし、無理さえしなければシーズンではクリーンアップを打ってシーズン20本塁打くらいはマークしてくれるのではないでしょうか。
これからはライバルチームの選手となったわけですが、たぶん「敵」として見つめることは出来ないと思います。僕はプレイヤーではなくあくまで一介のファンに過ぎませんので、この無責任な立場から、錯綜したものの見方をし続ける事になるだろうなと、妙な覚悟を持って多村選手を応援し続けたいと思っているところです。
以上